人はパンだけで生きるものではない(マタイ4章4節)
©︎Katsuaki Watanabe / 聖書 新共同訳

 

この箇所の文脈は、こうです。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

 

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

 

イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

(マタイによる福音書4章1節〜4節)

空腹のイエス・キリストが悪魔から誘惑を受けた時、イエスはこのように答えて悪魔を退けました。

悪魔が言ったことは、「石をパンに変えたらどうか」と言う提案。

 

イエスは神の子であり、父なる神に願えば、おそらくできたのでしょう。

私には石がパンになると言うのは信じられないことですが、かと言って、自分の知っていることが全てだと思い込むほどには、人間の認識力を信じてもいません。

頑張って想像力をたくましくするならば、3次元の空間以外は人は認識できないので、目で見えていない高次元の空間から物が入れ替わることがあるのかもしれません。

 

とりあえず、イエスはやろうと思えば石をパンに変えられた、と言うことです。

でも、そうしなかった。

悪魔の誘惑に乗らなかったわけです。

 

お腹が空いている時にパンを食べることは、悪魔の誘惑に乗ることでしょうか?

そうではないですよね。

誘惑の本質は、「悪魔の言葉に従うこと」にあります。

 

イエスは、その生涯を通じて悪魔と戦い続けなくてはなりませんでした。

悪魔の様々な誘惑を全部退けて、十字架の死による罪の贖い(あがない)を成し遂げなくてはならなかった。

 

だから、お腹が空いているからと言って、石をパンに変えることはできなかったのです。

それをすれば、悪魔の言葉に従うことになり、誘惑を退けられなかったイエスはその後も十字架の死を成し遂げられなかったことでしょう。

 

悪魔の言葉に従うか、神の言葉に従うか。

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。

これは、「私は神様の言葉に従います」という告白そのものなのです。

 

生きていれば、いろんな誘惑があります。

「あ〜〇〇したいな〜」と私が思う時、そういうもの全部が悪魔からの誘惑というわけではないでしょう。

でも、もし「これはダメだ」と直感的に気付いたら、それはやめなければなりません。

 

それはほんの些細なことかもしれませんし、明確に道徳に反することかもしれません。

気づかなければ、もうしょうがないです。

 

だから、「気付いたらやめる。」

これが大事だと思います。

 

最後に補足ですが、「イエスは神だから空腹なんてへっちゃらだった」というわけではありません。

人の体を持って地上に来た神様は、「人の体」によって著しく制限を受けていましたから。

 

お腹は空くし、疲れるし、怪我もするし、年老いるし、空も飛べないし、1箇所にしか存在できない。

神様にとってはもう究極の不便ですけど、そうやって神としての「当たり前」を制限することで、人の痛みを知ろうとされた。

 

だから、イエスは決して、空腹を感じないスーパーマンではありません。

40日も断食をすれば、その空腹はどれほどのものだったでしょう。

喉から手が出るほど、パンが欲しかったのではないでしょうか。

 

そう言う背景での、今回の聖書の言葉です。

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。