


旧約聖書の時代、神様はモーセを通じてイスラエルの人々を祝福し、このように言いました。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
(民数記6章24〜26節)
「神様があなたに平安を与えるように」という祝福の祈りです。
ぼくの生活は、決して「平安」ではありません。
楽しいこともあれば悔しいこともあり、喜びもあれば苦しみもあり……。
というか、苦しみは多く、悩むことばかりです。
聖書の神様を信じて歩むようになり14年以上経ちますが、年を追うごとに苦しくなるばかりに見えます。
「平安」な日々を夢見ていますが、待つ時間が長いと心がくじけ、諦めそうになります。
自分を責め、ますます努力するようになり、忙しさと孤独の間を行ったり来たりします。
「平安」を求めてもう一度モーセの祝福の言葉を読んでみたら、あることに気付きました。
それは、「平安」の前に「守り」と「恵み」があるということ。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
ということは、神様に守られ、恵みが十分に与えられて、その上で平安になるのではないか、と思うわけです。
逆に言えば、ぼくに平安がないのは、守りと恵みがないから。
安全が脅かされ、日々の糧が満たされていなければ、それは確かに平安ではないですよね。
でも、もう少し考えると、別の意味にも思えてきます。
つまり、神様に守られていて、恵みを十分にもらっているにもかかわらず、そのことに気づいていないから平安でない、と。
神様の守りと恵みに気づくことが、平安の秘訣かもしれない。
「足るを知る」ということ?
でもぼくは、今の状況では満足できないのです。
この状況をなんとかしたい。
この状況を変えて、目に見える「守り」と「恵み」で満たされたいと願うのです。
どうしてそれが叶わないのか。
「守り」と「恵み」をくださる神様を信じなさい、と言われるかもしれない。
「信じる」って、どこまでも曖昧な言葉だ。
結局、悩みは尽きない。
ぼくは、「受けるよりは与える方が幸いである」という使徒パウロの言葉が好きです(使徒言行録20章35節)。
幸せになるには、与えるしかない。
それが基本的な考え方です。
だから、「平安でないのは与えていないからだ」と考えてしまう。
今日、こんな文章を書こうと思ったのは、聖書の言葉を誰かに与えたいと思ったからです。
たくさんの聖書の言葉を受けてきたのに、受けるばかりで与えて来ませんでした。
こうやって誰かに伝えることで、もしかしたらぼくが平安になるかもしれない。
そんな期待をしつつ、写真に自分の言葉を添えました。